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中川 琢磨

 還暦記念にホノルルマラソン

 平成15年、年男となるひつじ年の正月、箱根駅伝を戸塚の国道1号線で選手の走るのを見てなんとなく考えた。 俺も今年は還暦だ、何か記念にやってみるか。そういえばホノルルマラソンは12月にある。制限時間がなくて半分お祭りみたいなところもあるらしい。

 これから1年もかけて準備すればナントカなるのではないか。この<1年かけて準備しなければならない>ところに<60年走りつづけて今日まで生きてきた証し> としては意義ありそうではないか。まず親戚の前で宣言した。「年末にはホノルルマラソンに出るゾー」。 そして次から次へと同窓会やら会合があるたびに宣言を繰り返した。まわりからは「フーン」の反応で 「それは凄い、頑張れ・・・」の声援はあまり聞こえてこなかった。

 現役時代、仕事やら家庭のことやらでストレスからウツになりかけたとき毎朝4キロ程度のジョギングを続けたことがある。 小渕首相が脳梗塞で倒れた頃小生も「脳梗塞のアトがある、有酸素運動をしなさい」の診断で水泳を始め、吉永小百合が格好よくバタフライを泳ぐのをみて目標にしたこともある。

 人間は加齢に従って身体が固くなり、その証拠に死ぬと硬直するではないか、の意見をモットモだと思いなるべく身体を柔らかくしておこうと真向法で起きぬけに、ひところは毎朝、最近は思い出しては身体を折り曲げている。低山逍遥で近場の山々をお天気がよければ家内とよくでかけた年もあった。登りより下りが弱く、ヒザを痛めるのでストックは手放せない。要するにフルマラソンするのに基礎ができているとは思えないが、そこそこ身体は動かしているほうだったろう。

 年間計画と目標をたてた。5月末に山中湖一周(14キロ)、11月に多摩川ハーフマラソンに参加し、そして本番に臨もう、 そしてスピードは歩く速さの2倍の時速8キロ。これならフルマラソンを5時間チョットでいける。
 練習らしいのを始めたのは4月の暖かくなってから。まず一頃よく走ったサイクリングロードを6キロ走ろうとしたら4キロほどでギブアップ、 一週間脚が痛くてどうしようもなかった。

 山中湖では10キロほどを走り続けられチョット自信が湧いた。 6月の末にスポーツジムにあるランナー機でベルトを踏み外し転倒して右腰を痛め坐骨神経痛となる。ヤバイと思う間もなく 体調不良で悪酔いし吐血に下血を起こして一週間近く入院してしまった。 そんなこんなで練習の再開が8月下旬。10月初旬にスポーツジムトレーナに伴走してもらって10キロを70分で走ったがフォームが悪い、腰をもっと高く、肩の力を抜いて、と言われた。

 11月のハーフマラソンはタイヘンだった。この日はあの高橋尚子も失速した日で暑かった。途中の給水にはスポーツ系ドリンクがなく ただの水だけだった。やっとこゴールしたら血糖値と血圧がさがっており眩暈をおこして数時間気持ちが悪かった。 この日は脱水症状で救急車で運ばれるランナーが多かった。そんななかでも、まあゴールできたのだから、とヘンな自信も湧いた。 本番までもう一月も無いので疲労回復させ長距離は走らないように、と指導があり主に腹筋と股関節の強化に努めた。

 初めてのフルマラソンしかも海外なので個人エントリーは心もとない。そこで通っているジムのツアーに参加する形をとった。 はじめは臆していた妻も途中から参加すると言い出し練習を重ねるうちに何かに目覚めたらしく、スピード、耐久力 とも旦那様を追い抜いていく。

 いざスタート
 大会前日は午後6時には就寝させられ午前1時起床となったがそれはそれで眠れるものだった。それよりも昼飯に、<クア’アイナ>とかいう青山あたりにも最近出店したという店のでっかいハンバーグサンドをビッグコーラで飲食したのは胃腸調整上はあまりよくなかったと思われる。

当日の朝5時に花火を合図にアラモアナ公園をスタートし、クリスマスイルミネーションが輝くワイキキ海岸を抜けダイヤモンドヘッド゙をあがって日の出を迎える。この山の登り口までがスタートから10キロである。

 オーバーペースを戒めているから何の苦痛もない。道は暗いが楽しく走れる。スタートの時「一緒に走ってくれる」と約束したはずの妻は疾っくにいないが追いついてやろうなどという気はさらさら起きない。山を降りて間もなく自動車専用道路に入る。このとき道の反対車線側を、既に折り返してくる先頭ランナーの一団に出会う。

 彼らのスピードに驚愕する。以後このハイウェイ上を延々とランナーの列が相対する風景が続く。もしかすると妻とすれ違うかもしれないと注意してセンターライン寄りを走っていたら、来ましたね。名前で声をかけたら吃驚したように「オーッ」と雄叫びにも似た声で応えて真面目に走っていった。

 妻とすれ違ったからもう折り返しも近くだろうと思っていたが、これがなかなか来ない。中間点が折り返し点になっていないことは知っていたが、だんだん暑くなってきてようよう中間点を過ぎる頃から足が重くなる。ハーフはなんとか 経験済みだからこれから先は未踏の世界である。<いつ歩き出すことにするか・・今か・・いやもうちょい先・・・ 今か・・・いやもうちょい先・・・>そんなことを考えながら歩を進めるが周りは殆どがギヤをシフトダウンしている。

 コースには全体で16箇所の給水ポイントが設けられ救護班や簡易トイレが設置されている。20〜30個程並ぶ簡易トイレの前はいずれも 数十人が並んでいて壮観ですらある。なんでも経験しておいたほうが良い、とか昨日のてんこもりハンバーグの所為だ、 とか理由をつけて、小生も並んでみたがここで10分ほどロスしたのが返すがえすも残念なことであった。
 沿道は箱根駅伝のような応援の波かというとそんなことはない。フィニッシュの数百メータあたりが大勢であとはところどころでツアー主催の幟が打ち振られてスタッフが声を嗄らしている。それでもこの応援は嬉しいし励みになる。外人が「グッドジョブ!」などと声を かけてくれるのも何やら面映い。

 スタートから40キロのところ、ゴールまでもう2キロチョットのところが再びダイヤモンドヘッド゙である。 なかなか近づいてこなくてジリジリしていた。

 そしてここでの沿道の応援の声が「ここが頂上、あとは降りで 楽ですよー、ガンバレー・・」。

 このとき胸 に一瞬ではあるけれどもウルウルッと込み上げてくるものがあった。<不覚にも>という表現がピッタリで、 これが<感動>というものだろうか・・。できたらもっと込み上げてこい、と期待したが意識してできるものではない。

 完走!

 カピオニラ公園にあるゴールへの300メータは花道になっている。写真に写るので両手を挙げてニッコリ微笑してゴールしなさいと何かに書かれていたのを思い出し、タオルをキリリと頭に鉢巻してバンザイして駆け込んだつもりだが写真では何やら足が十分にあがっていなかった。

 頭上に時間を表示するパネルがあって正午をチョット過ぎた時刻を示していた。ランナーズテントでふるまわれた福神漬けタップリのカレーライスはホントに美味しかった。

 今大会は22,120名が完走した。小生は17,904番、トップが2時間12分59秒、ビリが14時間7分56秒、 小生が7時間6分18秒。タップリ楽しみました。途中余計な休憩しなければ、7時間は切っていたはず。かえすがえすも惜しい。

 文中ところどころで顔を出した奥様は、6,133番、4時間49分35秒。素質があるんだアイツは。

完 走 証 書

 次回はなんとか5時間前後で走ってみたい、などと思い始めている。練習すれば十分いけるような気もする。 今回還暦記念にと初挑戦したマラソンだったが、年間を通じて目標をもって生活したこの経験は、これから第二の人生をどう送るかを考える上で教訓を残してくれたように思う。そしてマラソンなどという大それたことをやらなくても、という思いに対して最近 <坂村真民> という人の次の詩を知って勇気づけられている。

『 軽く軽く行動しよう 飛鳥 飛花  これがこれからの私の姿であれ
不要なものはすべて捨て去って  雲のように 水のように
なにごとにも執着せず 自然に身を任せてゆこう
重く座して 軽く立つ  これがこれからの私の行き方であれ 』

2004年1月4日
中川 琢磨 記
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